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「○○したい」という自主性

人前に立つことも ドキドキするのに、しゃべったり、演奏するなんて、とても緊張します。

そういう私に「歌を習ったらどう? (リラックスするための)呼吸法にもなるし、いいんじゃない?」と勧めてくれる友人がいました。

そのとき、数少ない「褒められ体験」=小学2年生の頃「ピアノは下手だけど、ソルフェージュで歌うのは良いわね」とピアノの先生に言われたこと。を思い出しました。
また、紹介された歌の先生のパンフレットの文言に「自分の本来の声を探したい」など、惹かれるものがあり、自分の良いところを伸ばすことで緊張が気にならなくなるのなら、それもいいかな?と思い、さっそくレッスンを受けに行くことにしました。

発声の基本的なこと、目からウロコの呼吸法など教えていただきました。そこで、私が一番難しかったことは、「○○したい」という気持ちから、歌ったり、話したり、朗読したり…ということでした!

これには、愕然としました。

そこに来ている人たちは、「○○したい」という”表現の種”がちゃんとあるのに、テクニック的な事がおぼつかなかったり、他の何かが邪魔をして、ストレートに歌えない、語れなかったりする人が多かったのです。

ところが私は、楽譜を渡されれば 音程・リズム正しく、それなりに器用に歌えるし、朗読も文脈を理解して それなりに器用に語ることはできるけれど、逆に「○○したい」という自分の欲求がないのです。

どうして”欲求=表現の種”がないのか?

応えは、人によって違うのでしょうけれど、私の場合、「○○したい」という気持ちを、物心ついた時から、無視して来たためだと思います。

”穏やかな良い子でいること”

そのことが、幼い私にとって 生き延びるために 未熟ながら考えついた選択でした。自分のことより、親、先生、学校、会社、社会が望む、「穏やかで良い子」をし続けた結果です。

似たような事が、今の子どもたちにも、求められているような気がします。

良い子であること。

子どもは、わがままで 生意気で 聞き訳がないのが 当たり前です。

なぜなら―――小さな身体をして、まだ人生数年しか生きていませんが、「○○したい」というちゃんとした、確固たる自分の「生きよう」とする意志があるのです。

ただそれを表現する方法が、未熟なだけなのです。

だから、ちょっと先輩の大人たちは、その未熟な表現にいちいち感情的になったりせず、距離をおいて、正しく表現されているか否かより、何を表現したいのかな?と気持ちに向き合うようにすると、子どもは安心します。

なぜかというと、「気持ち・感情」=「自分」と思っている時期ですから、気持ちを受け止められると、自分自身を受け止められた と思い、気持ちが安定します。落ち着きます。自己肯定感が育ってきます。

そういう信頼関係を先につくることが 大事だと思います。

そして安心して表現できる(言える、感じる、など)環境のなかで、「○○したい」という一種の自己実現のために、どうしたらいいのか、試行錯誤をするなかで、「わがまま、生意気」などと思ってしまうようなものも、洗練され、建設的なものへと変化していくように思います。

アトリエでの子どもたちの創作、表現は、3歳ならそれまでの3年間の人生のすべてをかけて、また5歳ならそれまでの5年間のすべてをかけて、「○○したい」ことを実現しようと、持てる力を総動員して、創作・表現している様子を、感じます。

その姿は、とても美しいです。

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